子どもの教育~教育改革の目指すところ

ここ数年、世界的に教育改革が叫ばれ、各国は、様々な方向性を打ち出してきた。

日本も例外ではない。終戦後に制定された教育制度を時代の変化に応じて、修正を繰り返してきたが、今回は抜本的な見直しのもと、政治主導による改革断行となった。

大学教育改革に続き、高大接続にみる入試改革、そして高校教育改革などは、その本気度を垣間見ることができる。

例えば、高等学校を例にとると、長年「学科」のど真ん中に座っていた、「普通科」を見直すとのことだ。「グローバル人材」「地域社会貢献人財」等の育成に直結する「学科」やコースの設置を考えているようだ。

大学進学に有利と見られた「普通科」だが、その実、「商業科」「工業科」「農業科」などの専門科の方が、同系統の学部に進学するならば、断然有利であることが報告されている。

そもそも、「普通科」は、アメリカの労働者階級を対象とした大衆教育の場として設置されたものだ。果たして当時の日本政府がどのようなつもりで、「普通科」設置を決定したのか、現場の先生方はしっかりと理解しているのだろうか。

この度の改革では、社会のニーズに応えた「学科」設置を考えているようだ。従って、もうどの高等学校においても不明瞭な「普通」ではいられない。それは、単に大学進学という曖昧なものではなく、明確な進路設計を前提とした高校教育の受容を生徒に求めている。つまり、本格的なキャリア教育を前提としていると考えられる。

それは、「専門職大学」の登場がものの見事にそれを表している。「専門職大学」は、文字通り、専門的な技術や知識を活用して社会貢献する人材を養成する「大学」つまりは、即戦力として就職するための高度な教育機関となる。

そして、「専門職大学」のほかに、「研究大学」として、より高度な研究を実践する大学として位置づけられる研究機関と、「教養大学」として、グローバル社会に適応できる基礎力を再構築するための教育機関に分かれる。従来の専門学校は、現場における必要な知識と技能を習得させる職業訓練学校となる。

この体系は、旧制学校制度とドイツの伝統的な学校制度に近いといえる。優秀な人材を輩出してきた日本の旧学校制度およびドイツの学校制度が合わさったような仕組みが展開されようとしている。

さて、ここで考えなくてはならないのが、国家がなぜ優秀な人材の輩出を謳い始めたかということだ。今までのように、「モラトリアム」期間としての、優雅で自由な学校(大学)ではなく、「成果」を求められる学校(大学)と変容しようとしている。

社会主義が退廃し、結局は資本主義が闊歩し、急速に展開する現代社会において、人間の生活は、他の生物と同じ熾烈な競争原理によって成立しているのだという現実を突きつけられたということだ。

例えライオンであっても、油断をするとハイエナの餌食になるジャングル社会であるということの再認識を国家が行ったということだ。

つまり、それは教育によって社会を変容しようとした甘い夢を、現実の資本主義社会が教育を管理することで、ぶっ壊したのだ。

チョムスキーを支持する学生や知識階層の社会人が増加傾向にあるアメリカは、すでにその現実を認識し、教育を人間の手に取り戻そうとする動きが出てきている。

その様な状況において、私たちは、民主主義社会の構成員であることを忘れているのではないだろうか。富裕層が上位に来る資本主義社会の構造と、民主主義は合致しない。文字通り「盾」と「矛」の関係にある。

民主主義の本質は、「万民による統治」であり、市民の「人権」を保障しようとするところにある。その実現のために、あらゆる「格差」(社会的身分格差、経済的格差等)を撤廃することを目標としている。その考え方が「平等性」を第一とする社会共産主義へと突き進ませた。まさに経済格差がすべての格差の根源とされたといえる。

一方で「自由」の問題が大きく取り上げられ、個人における「自由」の規制こそが「人権」にとって大きな影を落としておると考えられた。

この二つは、それぞれ正しいとされるが、実はこの二つもまた「盾」と「矛」の関係となっている。

個人の「自由」は、所属社会の「平等性」を崩すことになりかねない。例えば、「経済活動の自由」は、資本主義が勃興し、経済格差を生む温床となる。

現在、このあたりの調整的役割を果たしている概念が「公平性」であろう。しかし、この「公平」の基準がまた一様でないことは言うまでもない。(合理的基準,大衆的基準など)

また、合理性を追求しても、「絶対的基準」なるものは、ついぞ登場していない。

ここに、communication(意思の疎通)が必要となり、その上で、persuasion(説得)がそれを決定づける。

しかし、この場面においても、「意思の疎通」と「説得」という「盾」と「矛」の関係が成立する。

「意思の疎通」は、相互理解を前提とするが、「説得」は、説得者の意思を優先することを前提となる。

現在、このあたりの調整的役割を果たしている方法が「弁証法」となる。しかし、ここにおいても、aufheben(止揚)の基準は、実際的には一様ではく、結局はdebate(討論)による。これは、客観的評価者による合理的判断によって決定されるが、評価者に対する説得によるところが大である。

今までの「教育」の在り様は、このグレーゾーンを以下に鮮明にしていくかに力を入れていたように思えるが、現在では、このグレーゾーンをいかに活かしていくかが問われているよう思える。Diversity(多様性)を高々とかざした教育が正にこれにあたるといえる。

この段階で人間は、絶対性を求めたソクラテスやプラトンを断念し、相対的現実に活路を見出す方向性に舵をきったといえる。これは、キリスト教の最大の訓えである、「神のみが絶対である」を受け入れたとも考えられる。

しかしこれは同時に、人間の限界を決定づけることになり、境界線を超えることが許されなくなることにつながり、「神」が復活し、「自由」が死んだことになる。

このような中、人間社会の将来を担う子ども達の教育を真剣に見直さなくてはならないと痛感する。「人」は、「マシン」ではない。誰からも拘束されることなく、それぞれが豊かな生活を送るために生きる存在であるはずだから。